フランスにおいて最も有名な日本人画家、藤田嗣治は1886年に東京の医者の家に4人兄弟の末っ子とっして生まれました。中学校卒業頃には、画家としてフランスへ留学したいという希望を持つようになります。しかし、1905年に東京の美術学校に入学します。ところが、表面的な技法ばかりの授業に失望しながらも1910年卒業し、展覧会などには精力的に出品しますが落選します。1912年には結婚しますがフランス行きを決意し、単身でパリへ向かいます。フランスで藤田嗣治が居を構えたのは、パリのモンパルナス、当時は新興地で家賃が安かったので多くの画家が住んでいました。ここで藤田は後に有名画家になった人たちと知り合うことになりさらに彼らを通じて交友の輪は広がります。その中には後に世界的に認められる画家もいて、生涯を通じて親友になるのです。

パリで絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、第一次世界大戦が始まり、日本からの送金も途絶え、食事にも困る生活をしますが、終戦を前に藤田は認められることになり、戦後の好景気も藤田を後押しすることになり、パリで一躍名声を得るのです。そして経済的にも成功を収めた数少ない画家となります。1925年フランスからとベルギーから勲章を贈られます。二人目の妻、三人目の妻とも離婚し、南北アメリカでの個展で大成功をおさめた藤田は日本に帰国した際に1935年、一目惚れした25歳年下の生涯連れ添うことになる婦人と5度目の結婚をします。そして、1949年また日本を離れ、フランスに戻りますが、かっての友人は他界しているか亡命しており、マスコミからも亡霊扱いされます。1955年フランス国籍を取得し、1957年フランス政府から勲章を贈られ、1959年カトリックの洗礼を受けレオナールフジタとなります。1960年パリの南西30キロの郊外に最後の家となる住居兼アトリエを購入します。藤田嗣治はこのアトリエ自ら改装し、飾り付け、制作に打ち込みます。農家であった建物は街道の土手の斜面に建っていました。表側からは二階建てに見え裏側からは三階建ての建物でした。

1968年1月29日にスイスのチューリッヒでがんのために死去しますが、藤田嗣治が日本で正しく評価されるようになったのは近年になってからで、夫人は正しく評価されない藤田の展覧会の開催には協力しませんでした。しかし、夫人は藤田最後のアトリエを記念館として開館するのに尽力し、個人画集監修などもして、藤田の画業を支え続け、2009年に東京で98歳の生涯を閉じることになります。藤田嗣治の生涯は絵画に捧げたもので、これからは多くの藤田の謎の部分が解明されることになるでしょう。